2007年03月02日

ドホナーニ/Bruckner #3 & 8

dohnanyi_bruckner3_8_1.jpg

どこかの評論家が書いた文章で、「オーケストラの音楽で指揮者の重要度は9割だ」というような意味の文章を読んだことがある。
これは私には全く腑に落ちない文章であった。
このドホナーニの演奏を聴いて、なぜ腑に落ちないのかようやく分かった。

ヨーロッパ以外のオーケストラが演奏したブルックナーで、非常に高い成果を上げたにもかかわらずなぜか全く評価されたかった演奏がある。
若杉弘とN響のブルックナー(+メシアン)・チクルスだ。録音で聴いた限り、あくまでもヨーロッパ的な演奏である。それが結局「作り物」に聴こえてしまったのかもしれない。
作り物に聴こえた理由は、オーケストラの自発性の問題だろう。音程とか音量とか音色とかは完全にクリアした先に、どんな音楽を作りたいかという課題がある。N響の演奏では、あくまでも「言われたままに」だったのかもしれない。

閑話休題。
このドホナーニとクリーブランドの演奏は、ヨーロッパから遠く隔たった土地にあって、ヨーロッパのとの親近感を非常に強く感じさせる。それでありながら、「ヨーロッパの伝統」みたいな雰囲気で逃げることもしない。もちろんクリーブランドにも「伝統」はある。それは主にジョージ・セルの時代に作られた。その伝統がいい形で四半世紀後に花開いている。
このヨーロッパらしさを土台から積み上げて作っているのだ。ブルックナーのブルックナーらしさを、ドホナーニが設計し、クリーブランドが組み立てる。両者が同じ力量を発揮していないと、これだけの水準の演奏にはならないはずだ。つまり、指揮者が5割、演奏者が5割の重要度。
ただ単に精度が高いだけではない。すべてのパッセージの音の方向性がどの向きに向かうべきか分かりながら演奏されている。それは指揮者が言えばできるというものではないのだ。

やはり不思議なのは、これだけの演奏がなぜ評判にならないのか。同じクリーブランドを振ったジョージ・セルの3番と8番という同じカップリングのCDがSONYから出ている。こちらはいつの時代にも名盤と評価が高いのに。
ジョージ・セルのブルックナーについてはまたいつか書いてみたい。

ところで、ここで使われているのは、3番がエーザー版、8番がハース版である。これも現代となっては個性的なチョイスである。と思ったらハイティンクも同じか。クーベリックもだ。この時代の指揮者は旧全集の原典版で育ったんだね
しかし、エーザー版って、トリスタンの引用があったんだ。これまで全然気が付いてなかった。こないだのマルテ版もここを引用しているんだね。

The Cleveland Orchestra
Christoph von Dohnányi

Anton Bruckner

Symphonie Nr.3 d-moll 1877 edition Öser
1993.6.1, Severance Hall, Cleveland

Symphonie Nr.8 c-moll 1890 edition Haas
1994.2.6-7, Severance Hall, Cleveland

DECCA


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