2007年07月08日

未完成観

米子の医学部OBオーケストラの本番を弾いてきた。
シューベルトの未完成と、ベト7.7月7日に7番と7番である。

さて、未完成はもう何度弾いただろう。この曲は何度弾いても憂いと美しさに満ちて心地好い曲である。特に今日の演奏では演奏者が十分にいい音を出し切ってなかなかの演奏であった。

以前(6,7年前?)未完成を弾いたときに指揮者の先生が「何で1楽章が4分の3拍子で2楽章が8分の3拍子か分かりますか?」と質問されたことがある。そのときは結局答えを聴けなかった。当時は直感的に「2楽章は舞曲だから?」なんて思ったのだが、今でもその答えはあながち間違いではないとは思うが、満点ではないだろうと思う。
今現在の私の解は「1楽章は3つ振りの、2楽章は1つぶりの音楽(であるべき)だから」。結果的に2楽章が舞曲であることは変わりないと思っている。8分の6拍子は2つぶりで考えないといけないのと同じで、8分の3拍子は1つ振りで考えないといけないというのが本来の拍子の表記のルールなのではないだろうか。ブラームスの交響曲第3番が8分の6拍子でなく4分の6拍子であるのもそのあたりに理由があるのかもしれない。

さてこの未完成、譜面づらとは相反してとても難しい音楽だと思っている。それは音楽の表情の付け方。ベートーヴェンの音楽が「悩んだ結果」の音楽であるならば、シューベルトの音楽は「悩んでいるプロセスの音楽」ではなかろうか。音楽の一節一節の表情が決まっていないしころころ変わる。「泣き笑い」であったり「笑い泣き」であったり「怒りを秘めた笑み」であったり「絶望の中のかすかな希望」であったり。
縦の線や横の線をあわせていっても、その領域にはたどりつけない。奏者一人ひとりが表情のパレットをどれだけヴァリエーション豊富に持っているかでその表情付けのもっともらしさが違ってくる。

シューベルトを演奏するには「悩む人」である必要があると思っている。もちろんブラームスも。


posted by tak at 00:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽的思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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