2008年03月30日

タイヤを換えた

20050320potenza.JPG 20080329regno.JPG

ノーマルタイヤを換えた。
ブリヂストンの、POTENZA RE050A(写真1枚目)から、REGNO GR9000(写真2枚目)に。

この2銘柄、性格は正反対である。
http://www.bridgestone.co.jp/tire/performance/index.html
RE050は超絶ハイグリップ。写真で見る角が立った感じそのまま。カーブでは横Gかかりすぎて首がだるくなるし、ステアリングの据え切りではエンジンが負けてエンストする。ドライの路面ではもちろん恐ろしい勢いでグリップするし、豪雨の中でも素晴らしいスピードで不安なく走れる(免許は不安だけど)。
その反面、タイヤノイズはものすごいし、路面のあたりは硬いし、グリップが高すぎてボディがねじれてしまう。
65000kmを超えたちょいボロ車にはもうハイグリップタイヤはきついので、コンフォート系のタイヤを選ぶことにした。

REGNOは、これまた写真で見るなで肩そのままの優しい雰囲気。タイヤノイズは確かに低いし、路面の当たりは柔らかく、ふんわりとお餅みたいな感じ(意味不明)。グリップがどれくらいかは500kmくらい走って皮むきが済まないと試せない。今の状態では全然曲がらなくてどっかに行ってしまいそうであるが、もちろんこれは本来の性能ではなかろう。皮むきが済んだころが楽しみである。

ちなみに1枚目の写真は2005年3月20日(日)8:33撮影。多分前日にタイヤ屋さんに交換に行って、翌日朝撮ったのだろう。我ながらまめだね。2枚目は2008年3月29日(土)11:25撮影。タイヤ屋さんから帰った直後。タイヤ屋さんはいつもの末広タイヤ。いつもながら素晴らしい腕前。うっかりして何も言わなかったが、ちゃんと窒素を入れてくれていた。さすが。

前のタイヤは3シーズンで20000kmちょっとしか走ってなくて、交換は相当迷ったんだが、賞味期限は完全に過ぎていたし、ボディーをいたわるためには、やはり正解であった(と思うことにしておく)。
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2008年03月24日

初メサイア

長い長いメサイアも、無事終えることができた。
素晴らしいソリスト、米子第九の合唱団、私以外のオケのプレイヤー、そして指揮の松岡究先生にブラーヴィ!
私は、シャープやフラットの付け間違いなど、惨憺たる出来であった。出ない方がよかったのではなかろうか。ただ、個人的には「メサイア」という曲の素晴らしさを発見できて嬉しい。
全体としては、本番は皆さん緊張していたのか、それともお客さんが入って急に残響が減ったホールに戸惑ったのか、本来の素晴らしさがいまひとつ発揮できなかったのではなかろうか。もっとうまくできたと思う。
メサイアという曲は、最も重要な曲という意味ではなくて最も典型的な曲という意味で、「西洋音楽の中心」みたいなイメージに見えてきた。つまり、メサイアにはあらゆる要素が含まれ、あらゆるクラシックにはメサイア的なものが含まれている、と。だから、こういう曲を経験することは、クラシックという音楽に取り組むための絶対条件なのかもしれない。

さて、鳥取に帰ってきて、転勤のために鳥取市交響楽団を退団する人の送別会に参加。和やかなひと時。その中で、余談的に、ジュニアオーケストラの指導方針についての私の問題点を伝え聞いた。図星。ああ、なんと不勉強に「指導」していたことか。今後は指導者などと名乗る自信がなくなった。いや、逆だ。指導者と名乗れるだけの勉強をして、練習に望まねば。だらけちゃだめだ。
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2008年03月22日

明日はメサイア

今日はメサイアのゲネプロ。
明日23日は14時から米子公会堂で本番です。
第九米子合唱団とミンクス室内オーケストラ。
ソプラノは寺内智子さん、メゾソプラノの澤村翔子さん、テノールの小貫岩男さん、バリトンの吉田章一さん。
みんな本当に詩情あふれる素晴らしい歌です。
しかし、メサイアは長い!バリバリ肩こりになります。楽譜追うのも大変で。チェロは通奏低音だから文字通りずっと弾いてるんですね。楽譜は40数ページもあるし。
ただ、この時代の音楽を演奏して改めて気付かされたのが、誰もが使うテーマがあるということ。モツレクと同じテーマとか、運命と同じ動機とか、その時代にはそれぞれに意味があって、その時代のひとがそれを聴くと、その意味がちゃんと思い浮かばという。
そういう暗号は抜きにしてもメサイアは名曲です。
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2008年03月15日

倉吉室内合奏団ゲネプロ

20080315195733.jpg久々の日記になってしまいました。間が空いた理由は特にありません。単に「たいぎい」だけです。

さて、今日は倉吉室内合奏団のゲネプロ。
曲はなんだかいっぱいやるんだが、重要なのはエルガーの弦セレ全曲とドボルザークの弦セレ1〜3楽章。ホールの残響に包まれて演奏すると、ほんわりと憂鬱で、また幸せそうで、いい曲!
倉吉のみなさんはおっとりとした方が多いんだけど、ホールではちゃんと表現意欲ありそうに聴こえるんだよな。
事故さえなければ明日はいい演奏になるだろう。
14:00から倉吉未来中心です。
posted by tak at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽的活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月02日

「語る」音楽

土曜日から日曜日にかけて、ミンクス室内オーケストラで「メサイア」、倉吉室内合奏団でエルガーとドヴォルザークの「弦楽セレナード」、そして我が鳥取市交響楽団でショスタコーヴィチとグリーグの曲を練習した中で、自分の音楽観がどんどんとスライドして(あるいは思い付きが核心に近付いて)いくのを感じていた。
つまり、ピリオドスタイルというのは、カウンターカルチャーではなく、もちろん一時の流行でもなく、音楽の本来の姿への回帰ではなかろうかということ。本来の姿とは「語る音楽」。逆かな。「音楽は語りの一形態」であるということ。

本来作曲家は、音の連なりにメッセージをこめて作曲していた。同時代の人には、そのイントネーションとかアーティキュレーションでどういうメッセージが込められていたか分かったし、それを表現できた。当時は演奏会場が小さかったし、楽器も、声も、「語る」奏法・唱法で対応できた。巨大な空間で大きな音で演奏しなければならないときには、たくさん奏者を集めるのが普通だった。
ところが、音楽が、人が、国が変遷するにつれて、「言葉」が通じなくなってきた。演奏会場が大きくなり、「標準語」が求められるようになってきた。演奏者は、標準語というよりか工業製品のように音を出す技術者として育てられるようになってきた。いつしか音楽は「叫ぶ」もの、あるいは「鳴らす」ものになってきた。

こうした変遷はずいぶん前から起こっていたと思っていたのだが、わずか50年ばかり前から起こったことなのではないだろうか。
というのが、この2日間のさまざまな練習の中で、エルガーやグリーグはもちろん、ショスタコーヴィチを演奏していてさえも、音符とメッセージが表裏一体であることが感じられたから。ついこの間まで、音楽はメッセージだったのだ。
このメッセージの表現方法は、例えばヘンデルとグリーグでは違うようで同じようだ。ヘンデルでは音符の連なりと言葉が表裏一体であるが、グリーグでは音のひとまとまり、ひとつらなりが情景を描写している。とは言え、ヘンデルも音で情景を描写しないわけではない。
ショスタコーヴィチは、あえて「叫ぶ」音を出させることがあるが、それはもちろん心の叫びであったり、叫ぶポーズ(!)を表現するため。

今日のN響アワーでは、ブロムシュテットが指揮したグレートを演奏していた。素晴らしい熱演だったし、テンポも速くさわやか。4楽章では、聴いたことのない提示部リピートのための「カッコ1」を聴けた。昔なら手放しに賞賛したことだろう。だが、今の私には終始居心地の悪さを感じたのが「叫ぶ」スタイルの演奏であったこと。こういうのは試聴環境によって印象が大きく左右されるので、演奏会場ではそうではなかったと思いたいが、テレビの音を聴いた限りではそう思ったということ。リートで心情吐露しまくったあのシューベルトが、シンフォニーでは叫ぶなんてことがあるだろうか。
しかしながら、私が初めて「語る」スタイルに気が付いたのもN響の演奏なのである。おそらく後世にN響の黄金時代として語り継がれるであろう「デュトワの時代」におけるデュトワとのサン=サーンスのオルガン付きであった。見事なイントネーションの統一で第2楽章第2部のあの単純なテーマが立ち上がってきたのだ。
なんで「叫ぶ」スタイルになってしまうかというとこれは、単純に練習時間が足りないためだろう。「語る」スタイルの弱点は、語るためにイントネーションを統一するのに膨大な時間が必要であることだ。「叫ぶ」のは、音符の価値を平準化して技術として音を出せばいいので、時間がなくてもできる。大きな音で、美しいサウンドで音楽を鳴らせば、ある程度は「何かを表現できた」ことになる。
だが、クラシックが敬遠されるようになったのは、メッセージを伝えずに「美」とか「サウンド」を伝えた気になってしまったせいではないだろうか。
だから、私たち音楽表現者の端くれがすべきことは、音楽における「メッセージ」の復権である。イントネーションとアーティキュレションを明確にすること、そして、音楽が表現する言葉やストーリーや情景を掘り起こすこと。それを音で、それで足りなければ言葉を補足して、表現すること。ミンクス室内オーケストラが松岡先生と取り組んでいるのはイントネーションの明確化であるし、鳥取市交響楽団がレクチャーコンサートで取り組んでいるのは音楽的メッセージの言語化である。

クラシック音楽は、クラシック音楽が結果として表現するサウンドの美しさに安住しすぎていたのだと思う。
posted by tak at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽的思索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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