2006年06月02日

グッドオール/トリスタン/奇跡!

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音楽とはここまでできるものなのか!

すべての奏者がすべてのパッセージをどう演奏すべきか理解し、充分なリハーサルや本番を積んで、万全の演奏を実現している。
超一流の奏者はひとりもいないだろうが、逆に超一流の奏者ではこういう演奏はできないだろう。「ウサギと亀」というか、「ゆっくり歩むものはたくさん得られる」(?)という感じだ。

そもそもの「どう演奏すべきか」はすべてグッドオールに負っているわけだが、すべての1秒がきちんと咀嚼され、音の、音楽の方向性が明確にされている。テンポ感、リズム感が的確で、音楽は常に滔々と流れる。

また、山崎浩太郎氏の著作にもあるとおり、すべての歌手と1対1でみっちりと歌唱指導をした成果だろう、歌の表現、表情がどの場面でも音楽の指向性とぴたりと一致している。

イゾルデを歌うリンダ・エスター・グレイの表現ははかなげである。この曲の中でいろんなものが失われるわけだが、自身の歌手生活もこの役を歌うことによって失われてしまった。
すでにその未来を知っている我々は彼女の歌がその予言のように感じてしまう。
トリスタンのミッチンソンは万全だが、グレイともども、官能に耽る役柄にしては人格者に聴こえる。おそらくそれもグッドオールの意思なのだろう。

しかしまあ、カルロス・クライバーが讃えたのも分かる。クライバーの時代にもすでに「綿密なリハーサルによる意思の統一」なんてお伽噺とほとんど同義語になっていたからだ。現代の音楽業界は忙しすぎてそんな時間はないのだ。
この演奏は、テンシュテットのいくつかのライブととともに、おそらく現代に一番近い時代に行われた最後のお伽噺だろう。


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