2013年08月06日

オペラってなんだいな?ちょっぴり贅沢コンサートその3

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コンサートプログラムから、私が執筆した部分を紹介する。これは、《オネーギン》原作者のアレクサンドル・プーシキンの逸話をまとめたもの。

プーシキン変人伝
エフゲニー・オネーギンの原作を書いたアレクサンドル・プーシキン(1799〜1837)は、ロシア文学を一人で確立した天才。文学オタク、女好き、浪費家、短気。ロシア人にとって大きな誇りである作家であり、彼の名を冠した町、美術館、大学が存在する。そんな彼の天才ぶり、変人ぶりを垣間見られる逸話を紹介しよう。
・10代で父の書斎に入りびたり、ギリシャ文学、フランス文学、ロシア文学を読み漁った。8〜10歳のころに書いた最初の詩はフランス語。
・1815年1月8日、15歳のプーシキンに彼の最初の栄光の瞬間が訪れる。リツェイの公開進級試験の席で自作の詩「皇帝村の思い出」を朗読し、詩壇の長老格デルジャーヴィンから抱擁を求められた。これを機にプーシキンの名がリツェイの外まで広まっていく。
・グーベルという人が書いた「プーシキン、ドンファン表」という論文がある。プーシキンがのちにモスクワのウシャーコフ家の令嬢のアルバムに、自分の過去の情熱の対象を、真剣な恋16人、軽い行きずりの相手18人の名前を書きつけた一覧表が元。一覧表の一人目は「ナターリャ」という女性で、おそらく10代半ばの恋。
・プーシキン20代のころ、彼の名声は、予期に付け悪しきにつけ広く知れ渡っていた。オデッサのリツェイの学生、スマローコフの手記。プーシキンのルスランとリュドミラを読んでいると、廊下に足音が聞こえたので、とっさに隠した。足音の主「何を読んでいるのかね」スマローコフ「キケロの演説集です」「プーシキンは読んだことあるかい?」「あの人の作品を読むことは禁じられています」「彼に会ってみたいと思う?」素直に会いたいと答え、詩人のうわさはよく聴いていると言った。「私がそのプーシキンだよ」
・1929年、プーシキンは、従軍旅行に旅立つ直前、一家の古い知人であるフョードル・トルストイの末娘、ナターリャ・ニコラーエヴナに求婚している。当時16歳。
・ナターリャとの結婚式は1831年2月18日。ナターリャは美貌の人と伝えられているが、それ以上の賛辞は何もない。惨事はのちにいろいろある。
・妻は舞踏会で踊りすぎて流産。同じころ、両親の領地は差し押さえられ、弟に借金の肩代わりをさせられ、姉の夫には分け前を要求され…。
・1835年、妻のナターリャはフランス人の青年将校ジョルジュ・ダンテスに入れあげていた。ダンテスは、将校としての勤務ぶりは芳しくなかったが、社交界では目覚ましい成功。「最も美しい近衛騎兵将校の一人」「最も流行の殿方の一人」。
・1836年11月4日、プーシキンの知人友人数人が匿名の手紙を受け取る。「寝取られ男騎士団の上位勲爵騎士たちは(中略)満場一致にてプーシキン市を同騎士団団長の補佐役兼史家に任命」。翌日プーシキンはダンテスに決闘を申し込んだ。
・いろいろ画策されて延期されたが、翌1月27日午後4時半、首都郊外で決闘が行われ、プーシキンの腹部に致命傷、二日後永眠。37歳。

参考文献(引用):池田健太郎著「プーシキン伝」(中央公論社 昭和49年5月30日初版)
posted by tak at 22:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽的活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お疲れ様でした。ちょうど今日で一週間になるのですね。もう遠い昔の出来事のように感じます。
鳥取での日々は学びと出会いの詰まった、本当に充実したものになりました。本番のトークはぎりぎりまで大変でしたが、何とか無事にまとめることができ、よかったですね。
来年はオケでの出演ということで、また違った体験ができることでしょう。これからも楽しみですね。
Posted by オーレンカ at 2013年08月10日 18:23
ああ、あれは先週の今日のことだったのか!本当に遠い昔のことのようですが、本当に楽しかったですね。とてもユニークな経験でしたが、今後の糧になりそうです。
Posted by tak at 2013年08月10日 22:55
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