2007年05月15日

村上春樹のチャンドラー

longgoodbye.JPG

名作、名訳、名解説。レイモンド・チャンドラー作、村上春樹翻訳の「ロング・グッドバイ」である。
村上氏は、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」に続いて、アメリカの古典的名作を翻訳してきた。小説家としてはもうそんなにがんばらなくていいから、どんどん名作を翻訳して欲しいなあ。

レイモンド・チャンドラーの作品のことは、村上氏が再三エッセイの中で書いており、読めるものは大学時代にあらかた読んだ。もちろんこの「長いお別れ」も。
「あとがき」でも書いている通り、今回の訳では、旧訳で刈り落とされた細かなエピソードもすべて訳出されている。旧訳を読んだのがずいぶん前なので、具体的にどこがどうというのは読んでいても分からなかったが、冗長であることは分かるし、その冗長さが嬉しかった。よい作品ほど読み終えるのがもったいないので、少しでも長い方がいいのだ。

「あとがき」は、村上氏の小説よりもよっぽど面白い、なんていったら失礼か。チャンドラーの意識を小気味よく掘り下げ、小説の成り立ちをあからさまに知らしめてくれる。さっきまで読んできた小説をまた読み返したくなるような深みのある考察である。

さらに、村上氏の新訳では、まるで村上氏本人が書いた小説のような文体になっている。いや、正確ではない。村上氏はチャンドラーのように書きたかったのだ。
「その事件はもう終わったんだ。蓋を閉じられ、鍵をかけられ、重しつきで海の底にどぼんと沈められたんだ。わかったか?」
村上氏の小説にそのまま出てきそうな言い回しである。
プロットにしても、主人公がいろんなところに行って、いろんな人にあって、最終的にそれらがある程度関係性を持っていたことが分かるというようなことは、非常によく似ている。

それでも疑問は残る。村上氏は「50年くらいで翻訳を見直したほうがいい」と書くが、翻訳の文体だけが原作と分離してモダナイズされ、時代の空気が入れ替わってしまってもいいのだろうか。
この、登場人物がパソコンをたたきケイタイを持って歩いていても不思議でないような文体は、ほんとうにチャンドラーのこの作品にふさわしいのだろうか。
つまり、53年の作品なら53年の文体で書けばいい。だって、翻訳の必要のない小説の文体は変更しないのだから。これをクラシックの演奏に置き換えてみよう。「1900年の作品なら1900年の演奏スタイルで演奏すべきだ」。ピリオドスタイルが完全に市民権を得た今においてはむしろ正しく聴こえそうな気がする。

最後に一つ、音楽家が出てくる文章の引用を。
「カーン機関の調査員から見た君のような安物探偵は、トスカニーニから見たオルガン弾きの猿みたいなものなんだ」


posted by tak at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。