2017年02月20日

群発頭痛日記2017 その3(今期最終回)

<自分と、全国数万人の群発頭痛関係者のための記録なので、頭痛に興味のない方には申し訳ありませんがあまり役に立たない記事です>
2/11〜14
毎日、午前2時から3時の寝ている間に頭痛の兆候があって目が覚め、アマージを飲んで15分でおさまって寝るというパターン。頭痛は軽いがちゃんと痛い。
2/15
午前3時に強度5程度の頭痛で目が覚め、アマージを飲んで15分でおさまって寝る。
なかなか今回の群発期もしぶとく、1回の通院で大丈夫かなと思ったが甘かった。
アマージが少なくなったので、午前中に下田神経内科に通院し、アマージ10錠とミグシス14錠処方してもらう。歩いて職場に帰る途中に強度5程度の頭痛。歩いているうちに10分ほどでおさまる。
2/16
午前5時15分に寝ている間に頭痛がきて目が覚め、アマージを飲んで15分でおさまって寝る。
2/17
午前6時30分に寝ている間に頭痛がきて目が覚め、アマージを飲んで15分でおさまって寝る。前日もそうだが、寝る前にミグシスを飲むのを忘れるようになっており、ちゃんと飲めば防げたのかもしれない。寝るときにミグシス1錠服用。
2/18
米子にて米子管弦楽団定期演奏会のゲネプロ。ミグシスちゃんと飲んだ。ゲネプロが終わって夜遅くに晩ご飯食べてる時に、肩こりがぐわっと来て、頭痛来るか?と思ったら気配のみ。頭痛強度で言えば0.5とか。
2/19
米子管弦楽団定期演奏会も、頭痛なく無事終了。個人的な出来は満身創痍。ゆえにもやもやを解消すべく、鳥取帰ってからとうかい楼にて、ちょっとフライング気味にビール飲んでみる。
2/20
1日何もなし。アルコールの影響見られず。肩こりはあるが、頭痛強度で言っても0.1程度。頭痛マニアでなければ頭痛と気が付かないくらい(?)。つまり頭痛はない。
今期は普通に痛い頭痛が何度もあり、結構つらかった。期間の長さもいつも通り3週間弱。
ちょっと早まった気もするが、とりあえず群発期終了宣言!
ラベル:頭痛
posted by tak at 21:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めまして。メインのPCがショートして、仕事にも趣味にも使えない手持ち無沙汰から、サブの型落ちPCから頼りない作動環境でコンサート検索していると、京響の定期にM.アンドレエと云う指揮者の名があり、確かブルックナーのCDがあったな、と思い立ち、検索すると「フォルクマール.アンドレーエ」が出て来て既に物故者。M、が孫だと知りました。で、そのおじいさんの方のBRUCKNERZ全集とは?と検索するとこの Blogにたどり着きました。私もBRUCKNERは良く聴くけど、まさかこんな珍盤まで聴く人が鳥取にいらっしゃるとは。と、興味が出て来ていくつか読ませて頂きました。グリモーとか、ジュリーニなどの名が出てくるところは、多少私の志向とダブります。こちら鳥取市出身ですが、大阪に出て8年、その後パリ在住で20年、帰国後は中部地区に在住。カラヤン、バーンスターン、ホルショフスキー、アニー.フィッシャー、等々の最後のコンサートを聴いた世代的の音楽ファンです。今は鳥取が都会に見えるほど、田舎暮らしですが、先日はラトル&ロンドン響とか、内田光子、NDR(実はグリモーがベートーヴェン4番を弾くはずだったのですが、代演になりました)とか関西で聴いて来ました。あなたのBlogは可也マニアックでとても興味をそそられました。実は、名前の出て来たジュリーニ、80年初期にロスフィルと最後の来日以降、晩年は限られたヨーロッパ内だけで指揮活動しておりました。私は在住していたため、彼が引退するまで毎年複数回コンサートを聴いていました。計、大凡20回弱。そのプログラムは、ほぼ彼の主要演奏曲目を俯瞰出来るもので、ブルックナー、ブラームス、ベートーヴェン、ラヴェル、ドビュッシー、ドヴォルザーク、バッハ(ロ短調ミサ)、シューマン、ヴェルディ、等々。オケはメインがパリ管の定期客演指揮者としてですが、ミラノ.スカラ座管でも聴きました。残念ながらウィーン.フィルとのコンサート予定も入っていたけれど、キャンセルで聴けませんでした。彼ほどコンサートのコンディションが、聴き手にとっても難しい大家は無かったろうと思いはせます。最初2回のコンサートを聴いても、さっぱりどう評価して良いのやら分からぬままでした。3度目に聴いた時、ドヴォルザークの8番だったか?初めてショックを受けるほどの感銘を受けました。その後も大凡3度に1回くらいの割で「自分の音楽環境中、最大級のモニュメンタルな演奏」を記憶に強く刻んでくれました。音楽とは余り関係ない事ですが、ジュリーニと云う人は驚くばかりに誠実で端正でした。確かロ短調終演後(何とこの時点ですでに70代後半。普通休憩を挟む大曲ですが、彼は最後まで立ったまま休憩無しで指揮し、その上カーテンコールには何度も答え。私はその後、楽屋に行ってサインを頂いたのですが、長蛇の列の音楽ファン一人一人と立ったままで握手し、大変丁寧は応対をされていました。痩躯長身で、手が非常に大きく分厚くややふっくらした感触でした。その後別の機会にも楽屋に伺ったのですが、彼の対応は前回と同じものでした。バーバラ.ヘンドリックスがインタビューで「うまく表現出来ませんが、ジュリーニと云う方は、例えば牧師の様な人柄」と答えていました。まさに実感するところです。私は彼から音楽における内面表現とか、非常に磨き抜かれた知性と感性、それは例えばマチス晩年の切り絵の世界の様な、非常にシンプルなのだけれどそこに至る道程の切磋琢磨による彫刻を知らされるのでした。例えばジュリーニのドイツ音楽は、水平的で非常に感覚的なのだけれども深い。ただし往年のドイツ人指揮者達の様な哲学的だったり、文学的な要素のある演奏とは一線を画すもの。可也切り詰められたシンプルな物で感性的に抽象化されている様です。上手く言えませんが、ベートーヴェンやブラームスの音楽の中に、フランス音楽に見られる様な感性的なきらめきの要素もある。知的ではあるのですが、相当感覚的な表現を持っている様です。彼の音楽は深刻さや、暗さが全く無くて常に陽光に照らされてキラキラしています。音はとても綺麗でしたが、例えばカラヤンの様に高級車をピカピカに隅々磨き上げて、つま先まで輝かせるのを目的とする様な志向では無く、自分の表現の為に結果的にそう云う音をオケから引き出しているに過ぎない様でした。ジュリーニの音楽に「精神性」など無いよ、と云った人が居ましたが。それはドイツ精神主義志向の偏見です。マチスの特に晩年の切り絵などは、ラテン系の知性による深い精神美を内包して居ると思います。単純化されたものに、それがそこまで行き着くまでの思考の経過を無視して、ただ表面だけを見ていても真理は見えてこないのではないでしょうか。より純化の過程をへてそこにたどり着いた感覚美は別の意味での精神性を獲得したと思います。それが、カルロ.マリア.ジュリーニの音楽表現だったと思います。彼が、ドイツ音楽信仰ほぼ一辺倒(ごく僅かなフランス系音楽を好む人々も居るが)の、この日本で長らく理解されなかったのは当然だと思います。何故なら彼こそラテン系の感性的な精神美を追求した、おそらくその意味では最高クラスの指揮者だったからです。個人的な思いですが、ジュリーニを聴けた事、ふれあえた事は、彼に何度感謝してもしつくせない思いです。正直「芸術家=ペテン師」ほぼこれが同義語かと思えるくらい、世の中には「芸術家で生活している人」が予想以上に多い。しかし、「やむにやまれず、その一心で、結果的に自己表現をしている人達」そう云う人達も居ます。有名無名を問わずにです。でも人は「これは高価なダイヤだ」見せられれば無条件で関心を示すでしょう!。でも良く見れば良く観察すれば、その辺の雑草も、石ころも、落ち葉だって美の対象にはなるのです。価値って何でしょうね?大変長くなりました。これで止め置きます。(実は、人のBlog等に、この様に文字を書いたのは初です。それだけ興味をそそられたんだと思います。)Blog停止中のご様子ですが、体調は大丈夫でしょうか? 12月にパリ管の鳥取公演があるけれど行かれますか?。機会があればお話しなど、お聞きすることが出来れば楽しいかなと思います。(長くなったので、改めて推敲しませんので、誤字脱字ご容赦下さい)では。

Posted by 田江 正廣 タゴウ マサヒロ at 2018年11月14日 20:08
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