2010年04月09日

ドホナーニのデッカ録音コンプリート(多分)

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なんか久々の日記になってしまった。今日のは意味なく物々しいです。割り引いて読んでね。

コレクターの夢は「コンプリート」である。
私はこれまでいくつかのコンプリートを成し遂げてきた。
小さいものでは、ハイティンクのショスタコーヴィチ交響曲全集をすべて初期盤で集めたもの。点数は少ないが、10番はほとんど見かけなかったので苦労した。
結構がんばったのは、ドイツ・グラモフォンのショスタコーヴィチ全録音。ハーゲン・カルテットの録音したカルテットとか、いくつか廃盤があって苦労した。

そして今回成し遂げたのが、クリストフ・フォン・ドホナーニがデッカに行ったすべての録音。きちんとしたリストを見たことがないので「多分」としか言えないが、全曲集まったはずである。
ディスコグラフィは、よその人が作ったものだけど、こちらをどうぞ。http://blogs.yahoo.co.jp/megumegu0565/folder/70087.html
勝手に引用してごめんなさいね。

というわけで、最後に手に入ったのが、おそらくデッカへのドホナーニのデビュー録音であろう、ベルクの「ルル」組曲とR.シュトラウスの「サロメ」終幕のカップリングの1枚。1973年4月、ゾフィエンザールでの録音である。2曲とも後に全曲録音を行っているので、デッカ的にはテスト録音だったのかもしれない。
不思議なことに、このカップリングでは国内盤でしかCD化されていない。サロメだけなら以下のものがドイツ盤(多分)で存在するが、ルルは全然見つからない。
http://www.amazon.de/Ber%C3%BChmte-Szenen-Nilsson/dp/B00004U8FE/ref=sr_1_5?ie=UTF8&s=music&qid=1270740737&sr=1-5

演奏はこれがまた、ドホナーニのベスト録音ではないかというような、凄まじいもの。縦の線や横の線が正確とか、オケのテクニックがべらぼうとか、そういうことではなくて、音楽の方向性や、いろんな要素の有機的なからみ方が、あるべき姿で実現されている。しかも、たまたまそうなったのではなくて、オケにとってはいや〜なリハーサルを経て、そういう方面の精度を異様に高めることで実現されているっぽい。
ウィーン・フィルとは、これ以降もいくつも録音を重ねているが、オケのメンバーにとって楽しい思い出は一つもないだろう。であるからこそ実現できる音楽もあるということを、ドホナーニの演奏は教えてくれる。真似できないけどね。

2009年05月19日

ドホナーニの映像、1977年

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いったいドホナーニの指揮のもと、ウィーン・フィルはどんな表情で演奏していたのだろうかと、いつも思っていたのだが、ようやく理想的な映像で確認できた。
やはり、全然面白くなさそうな表情であった(笑)。

おそらくドホナーニとウィーン・フィルのレコーディングでの最初の共演は1976年。メンデルスゾーンの交響曲の1,2,3,5番とベルクの「ルル」を録音している。
そして、1977年、この映像収録の直前の11月22〜24日にバルトークの「役人」の全曲版、直後の12月6〜15日に「ペトルーシュカ」を録音している。

この映像収録での演奏は、もしかしたらDECCAの録音よりも精緻かもしれない。何せ、ウィーン・フィルが聴いたことのない精度で演奏している。ウィーン・フィルのこれだけ精緻な演奏は、最近チクルスに取り組み始めたティーレマンとのベートーヴェンの交響曲第2番くらいだ。
ドホナーニはノリノリで、暗譜で、恐ろしい精度のバトンテクニックで役人を、リヒャルトを、スコッチを振る。時折邪悪な笑みを浮かべながら。
それに対して、ウィーン・フィルのメンバーはニコリともせず、自らの美質である音の漂いとか揺らぎとかを捨てて、ひたすら精緻についていく。仏頂面で。
DECCA録音にしても、このUNITEL映像にしても、ウィーン・フィルにとっては「お仕事」であって、楽しいものではなかったのだろう。ドホナーニは時折、特定のパートに「大きすぎる」という意味で手のひらを下向きにした指示をするが、映像収録でそんなことするかね。オケにとっては全然嬉しくない指示である。だって、バランス取りを失敗したことを指摘されているんだから。でも、それによってドホナーニの絶妙のバランス設計が明らかになるのである。

この映像はこれまで発売されたことはあったんだろうか?ウィーン・フィルは発売してほしくなかっただろう。でもちゃんとこうやって世に出た。いい時代が来たものである。


http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=3545255

Christoph von Dohnányi
Wiener Philharmoniker

Béla Bartók
The Miraculous Mandarin - Concert suite

Richard Strauss
Burleske for Piano and Orchestra

Felix Mendelssohn
Symphony No.3 in A minor "Scottish"

1977.11.28-12.2, Musikvereinsaal, Wien

UNITEL CLASSIA - medici arts

2009年01月29日

ドホナーニのバートウィッスル

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これは知らなかった。某オークションに出品されていて初めて存在を知った1枚。

なつかしのargoレーベルから出ていた、イギリスの作曲家、ハリソン・バートウィッスルのアルバムである。
1995年作曲のサクソフォンとドラムセットとオーケストラのための「パニック」と、1984年作曲のオーケストラのための「アース・ダンス」。

実は、写真にあるように、バートウィッスルの曲はブーレーズとアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏(1993年録音)で1枚だけ持っていた。6,7年前に買って、一度聴いて「これは性に合わない」と思って全然聴かなかったのだが、ほんの3ヶ月くらい前に改めて聴いてみて、すうっと体に入ってくるようになじんでしまった。
どう言えばいいのだろうか、いわゆるゲンダイオンガク的であり、かなり騒々しくて、しかもポップに騒々しかったり無秩序に騒々しかったりする。ちょっと我慢ならないタイプの騒々しさなのだが、なじんでしまえば全然嫌じゃない。

アンドルー・デイヴィスの方は、バートウィッスルの作曲様式も固まり、相当騒々しいが、演奏もかなり騒々しい。上手いしちゃんと必要な音が鳴っている(ようだ)が、なんというか「ぶちまけた」感じ。
一方ドホナーニは、曲も演奏も静謐さを感じる。技術的な精度が恐ろしく高い。また、ひとつひとつのパッセージの音色、音の形が美しい。それが全体として音楽のまとまりを感じさせている。

今後もバートウィッスルを追いかけることはないと思うが、ブーレーズの1枚とこの1枚で、バートウィッスル的世界は十分楽しめそう(??)だ。


Harrison Birtwistle

Panic (1995)
saxophne: John Harle
drum kit: Paul Clarvis
BBC Symphony Orchestra
Andrew Davis
1995.10, EMI Studio 1, Abbey Road, London

Earth Dances (1984)
The Cleveland Orchestra
Christoph von Dohnányi
1995.4, Severance Hall, Cleveland, Ohio

argo
ラベル:ドホナーニ

2009年01月20日

コンセルトヘボウ・アンソロジー5(80年代)

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これまでも数々出てきたロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のライブ集であるが、我慢を重ねて、これまではベイヌム・セットしか買っていない。
そこにこの第5集。
http://www.hmv.co.jp/news/article/811190120/
ほぼすべて興味ある演奏に満ち、特にクリストフ・フォン・ドホナーニの、ほかでは聴けなかったシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」が聴けるとあって、「買うしかない」。
買って、聴いて、素晴らしさに満足。
興味深かったもののみ感想を。

6位 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番変ロ長調Op.19/マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)/ネーメ・ヤルヴィ(1983年11月3日)
アルゲリッチにかかれば、どんな作品も、たった今生まれたかのように新鮮に聴こえる。すぐにベートーヴェンから逸脱して「野生」を感じさせるヤルヴィの棒は興味深い。

5位 ウェーベルン:管弦楽のための5つの小品Op.10/カルロ・マリア・ジュリーニ(1979年6月9日)
ジュリーニのウェーベルンとは以外だったが、ブリテンの戦争レクイエムの録音もあるし、コンセルトヘボウへの初期の出演ではイタリアの現代音楽を紹介していたそうだから、当然こういう曲だって何の問題もないのだろう。なまめかしく、また、鮮烈に新ウィーン学派をごく当たり前に、また魅力的に奏でている。ブラームスの4番は予想通りの名演だが、これは予想外の名演。

4位 マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」/レナード・バーンスタイン(1987年10月9日)
バーンスタインの一発ライブはこうでなきゃ。灼熱のフィナーレ。

3位 ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調Op.55「英雄」/ニコラウス・アーノンクール(1988年10月16日)
アーノンクールの音楽は中毒性がある。これを聴いたら「もうほかはいらない」と思ってしまいがちになる、他に聴いたことがないユニークな音響を緻密なアーティキュレーションの作りこみによって聴かせる。楽器がモダンであるかピリオドであるかというのは関係ない、イマジネーションの問題だということが如実に分かる1枚。

2位 シューマン:交響曲第1番変ロ長調「春」/ベルナルド・ハイティンク(1981年5月1日)
ハイティンクが実現した、精密精度巨大音響の「春」。シューマンってこんなにビンビンオケが鳴るのか。モダン楽器のモダン・スタイルの究極。ある意味シューマンに聴こえないくらい立派な演奏である。たまたま先日スタジオ録音の「ライン」1楽章を聴いたが、演奏も録音もこれと比べればぬるま湯。

1位 シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」Op.5/クリストフ・フォン・ドホナーニ(1988年4月24日)
ペレメリって、 ホラーだったの?すべてのパッセージはデフォルメなく正確に。その精度によって音楽がリアルに怖い情景として立ち上がる。観客たちは恐怖体験だったに違いない。生で聴けた人を気の毒に思ったのは初めてだ。


【頭痛日誌】
朝7時に薬を飲むが、8時半から9時まで強烈な頭痛。薬が効いていない。薬自身が効いていないのではなく、前の薬の効き目が切れたのと今の薬が効き始めていないのの谷間だと考え、投薬プランを変更することに。17時、1時、9時で試してみて、それでもだめなら1時間ずらす。それでだめなら薬が効いていないということだろう。

2008年08月21日

ドホナーニのモーツァルト(とウェーベルン)

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なかなか姿を見かけなかった管楽器の協奏曲集が入手でき、ようやくドホナーニのモーツァルトを揃えることができた。
実は、交響曲集は2年くらい前、アイネク+フルート&ハープ+協奏交響曲の方は1年くらい前に入手していたのだが、これらの演奏を表現をする言葉を持っておらず、何も書けないでいたのだ。今回全貌が見えたおかげで、何がしか書けそうな気がして筆を執った次第。
これらの録音のコンセプトを整理しておこう。
・クリーブランドのプレイヤーがソロを執ったモーツァルトの協奏曲集(2枚)
・モーツァルトの後期交響曲集とウェーベルンを組み合わせてみました(3枚組み)

キーになったのはクラリネット協奏曲だった。クリーブランドらしからぬ、と言ってもいいくらい華やいだ雰囲気で始まる序奏、それに続いて温和でビューティフルに振る舞うクラリネット。クラリネットは楽章を追うごとに雄弁になり、それにつれてオケも紅潮してくる。霊感が宿った音楽が聴けるのだ。そう、100点満点で120点と言ってしまいそうな、音楽を超越する瞬間。ただ、指揮者とは関係なしに盛り上がっているように聴こえる。でもいい。音楽がいいんだから。
ダニエル・マジェスケがソロを執った協奏交響曲も別格の風格である。天才だけがなせる業。

これと比べたとき、100点満点の100点の音楽は分が悪い。100点なのに褒めてもらえない。アイネクライネ、40番、41番はそんな感じ。なんか音が湿っぽいし。
30番台の4曲はそれよりも好きな演奏だ。明るくポジティブに人生を謳歌するかのような演奏である。
その他の協奏曲は、私にはやはり100点の演奏に聴こえる。オケのプレイヤーがソロを執ることの難しさが出ているような気もする。
なんて勝手なことを言っているが、モーツァルトを、アメリカの、モダンスタイルのオーケストラでこれだけきちんと演奏できるようにするには、相当な指揮者の牽引力が必要なことは言うまでもない。一流のオーケストラだってぼろぼろの演奏をすることもあるんだから。そういう意味で残念なのは、ピリオド・スタイルの「語る」アーティキュレーションを使える奏者がいないと退屈に聴こえてしまうという私の感受性の変化である。この10年でもう後戻りできなくなってしまった。

さて、この交響曲集でもう一ついろいろと言われるのが、モーツァルトにウェーベルンをカップリングした理由。これはライナーノートにきちんと書いてある。
・どちらもウィーンの時代を画した3人組のひとり。モーツァルトは、ハイドン、ベートーヴェンとともにウィーン古典派を成し、ウェーベルンは、シェーンベルク、ベルクとともに新ウィーン楽派を形成した。
・ベートーヴェンがシェーンベルクなら、モーツァルトはベルク、と見せかけてやはりウェーベルン。完璧主義者という点で共通。
・モーツァルトもウェーベルンも、フーガへのこだわりなど、バッハに密接につながっている。
・ウェーベルンは三人集の中で唯一、指揮者としてモーツァルトの交響曲に密接につながっている。最後の4つの交響曲はそれぞれ1〜4回の演奏記録がある。
なんだかだんだんこじつけっぽくなっていくように感じるのは私だけか?

それはともかくこのウェーベルンの演奏の美しさは尋常でない。すべての楽器がスウィートに音を発し、協和音であろうと不協和音であろうと妙なるハーモニーを奏でている。これが本当にウェーベルンらしいかと言われると、もっとトゲトゲしてていいんじゃない?と言いそうになるが、これはこれで一つの芸術である。


The Cleveland Orchestra
Christoph von Dohnányi


436 421-2
Disc 1
Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony No.35 in D major, K385 'Hafner'
1990.10, Severance Hall, Cleveland

Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony No.36 in C major, K425 'Linz'
1990.10, Severance Hall, Cleveland

Anton Webern
Passacaglia, op.1
1992.1, Severance Hall, Cleveland

Anton Webern
Six Pieces, op.6a
1992.5, Severance Hall, Cleveland

Disc 2
Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony No.38 in D major, K504 'Prague'
1990.2, Masonic Auditrium, Cleveland

Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony No.39 in E flat major, K543
1990.10, Severance Hall, Cleveland

Anton Webern
Five Pieces, op.10
1991.10, Severance Hall, Cleveland

Anton Webern
Symphony, op.21
1991.5, Severance Hall, Cleveland

Disc 2
Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony No.40 in G minor, K550
1990.2, Masonic Auditrium, Cleveland

Wolfgang Amadeus Mozart
Symphony No.41 in C major, K551 'Jupiter
1990.2, Masonic Auditrium, Cleveland

Anton Webern
Variations, op.30
1991.10, Severance Hall, Cleveland


443 175-2
Wolfgang Amadeus Mozart

Serenade No.13 in G major, K525 'Eine kleine Nachtmusik'
1991.8, Severance Hall, Cleveland

Concerto for flute, harp and orchestra in C major, K299[297c]
flute: Joshua Smith
harp: Lisa Wellbaum
1993.6, Severance Hall, Cleveland

Sinfonia Concertante in E flat major for violin, viola and orchestra, K364
Violin: Daniel Majeske
Viola: Robert Vernon
1991.5, Severance Hall, Cleveland


443 176-2
Wolfgang Amadeus Mozart

Concerto for clarinet and orchestra in A major, K622
clarinet: Franklin Cohen
1991.10, Severance Hall, Cleveland

Concerto for oboe and orchestra in C major, K314
oboe: John Mack
1992.1, Severance Hall, Cleveland

Concerto for bassoon and orchestra in B flat major, K191
bassoon: David McGill
1993.6, Severance Hall, Cleveland


DECCA

2008年01月25日

ドホナーニ/Bruckner #6

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この6番をもって、ドホナーニがクリーブランドとデッカに録音したブルックナー、3〜9番が私のコレクションにようやく全部そろった。

結構風変わりな演奏である。
ミクロのレベルで言えば、ここの奏者がここのパッセージを、フレーズの入り、フレーズの頂点、フレーズの出を明確に意識して、きちんと歌って再現している。6番はかなり細かいパッセージの積み重ねっぽいところがあるが、概ね万全である。
ただし、テュッティになると妙に求心力がなくメロメロになったり、逆に構築的なコラールが聴かれたり、いいところとどうかと思うところが混在している。しかもテンポ設定が細かく変わって、しかもあまり一貫性がなさそうで、よくもまあオケがついていっているもんだと感心する。6番なんてめったに演奏しないだろうに、「よく知っている」要に聴こえるのが不思議、というかさすがビッグ5のオケだけのことはある。。
さらに、ブルックナーでこれをやるととたんにダサダサになる、しかも、ドホナーニがしょっちゅうやる「短めの四分音符」がたまに炸裂する(ドヴォルザークとかマーラーの5番とか幻想交響曲では成功しているのだが)。う〜ん。
で、これが駄演かというと、まあ私が勝手に「ドホナーニ補正」を掛けてしまっている(何でも許せる)のだと思うが、よい印象だけが残る。輝かしく、かつよく歌うブルックナー。6番で一押しにできるかというとどうかなあと思うが、聴くべきところはたくさんあろう。

バッハのリチェルカーレのウェーベルン編曲版は、これはまたメロメロにロマンティックな名演である。バッハらしくもウェーベルンらしくもない不思議な演奏だが、音楽の演奏の多様性への可能性を充分に示している。
ちなみに、この曲の録音日は、以前紹介したブルックナーの3番と同じ。あの演奏はここまでとろけるようなロマンティックさはない。
http://takmusik.seesaa.net/article/35023540.html

ヤフオクで調達。3,900円はちと高いがまあ本当に手に入りにくいのだから仕方ない。ちなみにパッケージにはドイツ・プレスとあるのに中身はフランス・プレス。実はこういうのは結構よくあることである。ブックレットとか紙類はまとめて3ヶ国語で印刷しておくのだろう。

The Cleveland Orchestra
Christoph von Dohnányi

Anton Bruckner
Symphonie Nr.6 A-Dur
1991.10.7, Severance Hall, Cleveland

Johann Sebastian Bach
Fuga ricercata a 6 voci, orchestrated by Anton Webern
1993.6.1, Severance Hall, Cleveland


DECCA

2007年06月14日

ドホナーニのブラームス

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ようやく聴けたドホナーニのブラームス全集。
最初は単売で、しばらく前は2枚組み×2セットで出ていた交響曲全集(後者は+ヴァイオリンコンチェルト)であったが、しばらくは廃盤であった。
最近になって、この紙ボックス入りのセットが出た。このシリーズは他にアーノンクールのベートーヴェン全集(14枚組)やヴェンゲーロフ録音集(11枚組)、レーピン録音集(10枚組)、グリモー録音集(6枚組)があるようだ。

さてこのブラームス全集。解釈的には至って普通だし、演奏も破綻なく普通なのだが、どう聴いてもただのスタジオ録音に聴こえない。編集跡だってあるし、ミスも破綻もないので一発録りのわけはないのに、なぜか一発録りに聴こえるのだ。

おそらく、出たとこ勝負の録音なのだろう。特に事前にテンポ設定や細かい解釈上の指示をするでもなく、また細かい練習をするでもなく「せーの」で録音し始めちゃったんじゃないだろうか。ブラームスなんてメンバー全員身についているだろうし。
それでも、慣習的な解釈が慣習的でなく聴こえるというのは、演奏の慣習化を許さず、奏者の自由を許さない指揮だからだろうと思う。テンポももしかしたら振るたびに違うかもしれないし、その場その場で奏者は指揮にあわせていかなければならない。相当の緊張感であり、自然とモチベーションを上げねばやっていけないのだろう。
結果、すっきりとしてかつテンションが高く保たれた、極上の演奏が生まれている。過激な演奏しか受け入れられない某評論家のような人にはさっぱり分からない演奏だろう。

最後に、ヴァイオリン・コンチェルトについて。ツェートマイヤーの解釈というか演奏は相当「変」である。テンポは自由だしフォルムはゆがむし酔っ払いのように歌うし。それでも音楽としては破綻していない。淡々と苦もなく寄り添っていく指揮者とオケも見事である。融和感は一切ないがそれはそれでよい。そういう演奏は他にいろいろあるのだし。

というわけで、ドホナーニファン(何人いるんだ?)必携の1組である。


Christoph von Dohnányi
Cleveland Orchestra

Johannes Brahms

Disc 1
Sinfonie Nr.1 c-moll, op.68
1986.10
Akademische Festouvertüre, op.80
1989.10

Disc 2
Sinfonie Nr.2 D-Dur, op.73
1987.12
Tragische Ouvertüre, op.81
1988.5

Disc 3
Sinfonie Nr.3 F-Dur, op.90
1988.5
Violinkonzert D-Dur, op.77
Thomas Zehetmair, violin
1989.10

Disc 4
Sinfonie Nr.4 e-moll, op.98
1987.5
Variationen über ein Thema von Joseph Haydn, op.56a
1987.12

Masonic Auditorium, Cleveland, Ohio
Teldec

2007年05月14日

マエストロドホナーニ、ブラーヴォ!

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すばらしい演奏!

まずはウェーバーの「魔弾の射手」。
指揮者もオケも、最初から全く気負いもなく、シンフォニーホールの空間をあっという間にドイツの深い森に連れて行ってしまう。
オケは音程もいいし音もいいのになぜか靄がかかったようになっていて、それがまた曲想にマッチしている。そういう音をオケが出そうと思って出しているのだ。
弦は16型、対抗配置。

メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルト。
オケは弦を12型に削減して、しかもさらにソロ・ヴァイオリンの音量に合わせて、全体の音量を控えて、まさに裏方に徹する演奏。これがまた、ソロ・ヴァイオリンをふんわりと霧で包み込むような美しい演奏であった。
諏訪内晶子女史のソロは、あれはどうなんだろうか。
レガートではブリリアント(ちと音がおばさんっぽいが)で、細かい音はくっきりと粒立ちがよく、細かいところまできちんと弾けているし、よく考えられている。
でも、オケを置き去りにして一人旅、あるいは「一人で生きていくの!」みたいなのは、もう流行らないんじゃないだろうか。特に3楽章では、細かい音符で聴き取りがたいところでどんどん速くなるものだから、気が付くとオケが半拍とか1拍先遅れているなんてことがある。
そういうところでも、指揮者もオケも当然ながらピタリとあわせてくるんだが、そういうスリルって必要なのだろうか?1楽章の後半とか2楽章の後半とか、オケと一体となってソロが弾く部分もあったが、そういうところは絶品だったのだ。競奏じゃなくて協奏の方がいいと思う。
聴衆はとても沸いていたので、まあたいていの方はあんまり気にされなかったんでしょう。

悲愴は、一切感傷性のない、というか、人の住まない観念の世界のような、おそろしいまでに厳しい音楽だった。
オケが歌いたくてテンポが間延びするとか、ご都合主義的な演奏を一切許さない。テンポはこう、タイミングはこう、歌いまわしはこう!いやはや硬派である。
4楽章の曲中の最大音量のところにきちんと頂点が来る。4楽章もテンポの速いこと!嘆きとか悲しみとか、そういう情緒は一切なく、浄化とか彼岸とか、崇高さを感じさせる。

アンコールは、スラブ舞曲第2集第2番。あのセンチメンタルな音楽が、恐ろしく気高い精神で演奏される。
本プロの3曲のいい意味で靄がかかった演奏とは違い、クリスタルのようなクリアさであった。

さて、今回の演奏会はどれくらいリハーサルをしたのだろうか。ほとんどリハ無しだと言われても全然不思議ではない。オケにとってはもう数え切れないくらい演奏した曲ばかりだろうし、あれだけ示唆的な指揮であれば、細かい練習をしなくても「こう弾くんだ」というのが瞬時にオケが理解できる。そういう意味ではヤルヴィとよく似ている。
また、今日は客席は大いに沸いていたが、こういうタイプの演奏を許せない人がいてもこれまた不思議でない。「どこが面白いの?」みたいな人もいそう。でも、これが面白いんだよなあ。

残念ながらサインはもらえなかった。姿だけは間近で見られた。指揮振りは矍鑠としているが、足取りが重く、体調が万全でないのかもしれない。

今回は往復とも国道9号をひた走り、京都府瑞穂町で国道173号で大阪入り。往復ともほぼ4時間半。普通の人の生活時間帯なので、制限速度で走る車が多くて、時間は稼げなかった。でもこの経路は景色がいいので許す。

ところで、今日座った席の隣のおばちゃんが、間の休憩のときに話しかけてきて、ひとしきりいろいろとお話させていただいた。いやはや、サライネスの漫画にあるように、大阪のおばちゃんは知らん人でも平気で話しかけてきはるね。
よく聴いたら某有名姉妹アーティストのご親戚だそうで、えらいびっくりしてしまった。また大阪のコンサートで会えたら楽しいが。

ちなみに今回のCDの獲物は、ラベック姉妹とサイモン・ラトルなどのバルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタ(EMI)、コンチェルトと、ベーム/WPhのブルックナーの3&4(DECCA)の二組だけ。ちと最近貧乏なもので。

写真は、プログラムを買った人に配られた、NDR作成の独語・英語の冊子。2枚目の写真には、フルートを吹くドホナーニ、兄と写るドホナーニが見える。

2007年05月13日

さあ、ドホナーニNDRウィークの開幕

いよいよ5月13日からドホナーニNDRウィークが開幕する。
私が行くのは、初日の大阪公演。5月13日、ザ・シンフォニーホール。
http://www.asahi.co.jp/symphony/symphony2007/c20070513.html
プログラムは、魔弾、メンコン、悲愴。いつもそうだが、大阪公演だけプログラムの魅力が少し薄い。それでも「魔弾の射手」は楽しみだ
東京ではブラームス・チクルスの公演があるのがうらやましい。これがあるからアンコールはハンガリー舞曲か。悲愴のときはオネーギンのポロネーズだといいなあ。くるみ割りじゃなくて。

実は私がチケットを取ったのは一昨日の11日の金曜日。ぴあにもずっと一番高いチケットは残ってたし当日券で余裕だろうと思ってたら、金曜日の時点で補助席も出てるのに残り10枚程度しか残ってなかった。泡を食って予約した。
おかしいなあ、以前シンフォニーホールであったハイティンクSKDのブルックナーの8番も当日券では入れたのに。諏訪内効果?これを見て当日券で入ろうと思ってもチケットはないかもね。

悲愴はドホナーニはクリーブランドと録音している(TELARC)が未聴、NDRはクラウス・ペーター・フロールが指揮した2001年の公演の音源を持っている。これがけっこうダメダメ演奏。どう考えても指揮者が邪魔している。指揮者の邪魔に耐えてオーケストラが独力で演奏しているとしたら、いい演奏である。

さて、明日はどうなることか。楽しみである。

ちなみに明日は車で行くが、高速代(とガソリン代)をケチるため、国道9号→国道173号(能勢街道)で行こうと思っている。時間に余裕がなければ、能勢町から梅田まで阪神高速池田線を使う。おそらく所要時間は4時間〜4時間半。
以前この路線で行ったときは、ちょうど昼時に川西市内の「家族でランチ外食」渋滞に当たってしまいどうなることかと思った(地方都市にはそういうのがあるのだ)。上記のチケットの予約は13時半を過ぎるとキャンセルされるので、この渋滞前に通り過ぎれるように、朝は6時半出発にしようと思っている。が、起きれるかどうか?

2007年04月15日

ドホナーニ/グラス/シュニトケ

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ドホナーニ物件で最も手に入りにくいと思っていた1枚。難なく某オークションで手に入れることができた。
ウィーン・フィルによるフィリップ・グラスとアルフレート・シュニトケである。この内、シュニトケだけは同じシュニトケのヴァイオリン協奏曲(指揮はハインリッヒ・シフ)とのカップリングで現役盤である。

フィリップ・グラスは、伝統的なオーケストラ編成と、伝統的な3楽章構成で書かれているが、あのいつものポップス崩れのようなチャラい感じの音楽なのである。
でも私は嫌いではない。ミニマル音楽の旗手らしく、ワン・アイデア(ワンフレーズ)を繰り返しているだけのような曲だけど、それでいいではないか。愁いを感じさせるモチーフは十分美しい。それをウィーン・フィルが演奏することで、演奏に揺らぎが生じ、ミニマルな音楽に波紋が広がっていく。つまり、ミニマルらしくない。
クレーメルはいつもの表現過多な演奏で、それもまたグラスにふさわしくないとも言えるが、それもまたよい。グラスらしいミニマルな演奏はほかにいくらでもあるだろうから。リラックスして聴く上質のポップ・ミュージック。

シュニトケは、厳しい音楽だ。クレーメルは万全である。ウィーン・フィルも丁寧にバックアップする。ひとつひとつのソロが美しい。
ピアノはシンセサイザーのような音響に増幅されているが、それがこの曲の絶対音楽的厳しさもさらに増幅しているように感じる。因みに冒頭の和音はバッハの無伴奏パルティータ3番のジーグと同じか。

2曲ともコンチェルトでありゲンダイオンガクであるためもあって、ドホナーニのドホナーニらしい表現が明瞭に聴き取れるわけではないが、むしろこういったタイプの曲を的確に音楽としてまとめ上げ、上質で上品な音楽として聴かせる手腕がドホナーニらしいと言えるかもしれない。


Philip Glass
Concento for Violin and Orchestra

Gidon Kremer, Violin
Wiener Philharmoniker
Christoph von Dohnányi

1992.2, Wien, Musikverein, Großer Saal

Alfred Schnittke
Concerto Grosso No.5 for Violin, an Invisible Piano(Amplified, behind the stage) and Orchestra

Gidon Kremer, Violin
Rainer Keuschnig, Piano
Wiener Philharmoniker
Christoph von Dohnányi

1991.11, Wien, Musikverein, Großer Saal

2007年03月25日

ドホナーニ/ブラームス/シェーンベルク

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辛口!

ウィーン・フィルが演奏したベートーヴェンのカルテットの弦楽合奏版では、バーンスタインのものとプレヴィンのものが有名である。
バーンスタインのしか聴いたことがないが、弦楽合奏の厚みを生かした名演だったように思うし、プレヴィンのものもそうだろう。

ドホナーニの演奏は、なんというか、カルテットの機動力とか瞬発力とかをそのまんま弦楽合奏で表現したような、熱い演奏だ。
常にニコリともせず、精神の高みを追求する、高潔な音楽。15番とか、他の曲もこんな演奏で聴いてみたい。

さて本命のブラームスのピアノ・カルテット第1番のシェーンベルク編曲版。
これまた高潔な音楽だ。
ちょっと聴いただけではまるで指揮者は何もしていないように感じる。オーケストラは美しく歌っているし、音楽は気持ちよく流れる。ウィーン・フィルなら当たり前のことだろう。
ところが、なんとも見事なテンポ設定なのだ。どの楽章を取ってもきびきびと停滞することなく前に進み、それでいて歌う余地を残している。オケは指揮者の手のひらの上で遊ぶ。
もちろんそのオケの遊び方も素晴らしい。弦のメンバーならたいていこの曲を室内楽で演奏したことがあるのだろう。どの部分をどう歌い、どう山を作り、どう収めるかという音楽の作りが完全に消化されている。弦だけでなく管もブラームスの流儀である。
編曲の仕方はシェーンベルクの音楽であるが、これはまさにブラームスの第5交響曲だ。どちらの顔も楽しめる。

某オークションで言いたくないくらい恥ずかしいような高額で手に入れた。ドイツ・プレスだし、満足!

ちなみにジャケットの絵はグスタフ・クリムトの「Water Snakes I」。


Ludwig van Beethoven
String Quartet in F minor, op.95
aranged for string orchestra by Gustav Mahler

Johannes Brahms
Piano Quartet in G minor, op.25
orchestrated by Arnold Schönberg

Wiener Philharmoniker
Christoph von Dohnányi

1995.3-4, Konzerthaus, Wien

2007年03月02日

ドホナーニ/Bruckner #3 & 8

dohnanyi_bruckner3_8_1.jpg

どこかの評論家が書いた文章で、「オーケストラの音楽で指揮者の重要度は9割だ」というような意味の文章を読んだことがある。
これは私には全く腑に落ちない文章であった。
このドホナーニの演奏を聴いて、なぜ腑に落ちないのかようやく分かった。

ヨーロッパ以外のオーケストラが演奏したブルックナーで、非常に高い成果を上げたにもかかわらずなぜか全く評価されたかった演奏がある。
若杉弘とN響のブルックナー(+メシアン)・チクルスだ。録音で聴いた限り、あくまでもヨーロッパ的な演奏である。それが結局「作り物」に聴こえてしまったのかもしれない。
作り物に聴こえた理由は、オーケストラの自発性の問題だろう。音程とか音量とか音色とかは完全にクリアした先に、どんな音楽を作りたいかという課題がある。N響の演奏では、あくまでも「言われたままに」だったのかもしれない。

閑話休題。
このドホナーニとクリーブランドの演奏は、ヨーロッパから遠く隔たった土地にあって、ヨーロッパのとの親近感を非常に強く感じさせる。それでありながら、「ヨーロッパの伝統」みたいな雰囲気で逃げることもしない。もちろんクリーブランドにも「伝統」はある。それは主にジョージ・セルの時代に作られた。その伝統がいい形で四半世紀後に花開いている。
このヨーロッパらしさを土台から積み上げて作っているのだ。ブルックナーのブルックナーらしさを、ドホナーニが設計し、クリーブランドが組み立てる。両者が同じ力量を発揮していないと、これだけの水準の演奏にはならないはずだ。つまり、指揮者が5割、演奏者が5割の重要度。
ただ単に精度が高いだけではない。すべてのパッセージの音の方向性がどの向きに向かうべきか分かりながら演奏されている。それは指揮者が言えばできるというものではないのだ。

やはり不思議なのは、これだけの演奏がなぜ評判にならないのか。同じクリーブランドを振ったジョージ・セルの3番と8番という同じカップリングのCDがSONYから出ている。こちらはいつの時代にも名盤と評価が高いのに。
ジョージ・セルのブルックナーについてはまたいつか書いてみたい。

ところで、ここで使われているのは、3番がエーザー版、8番がハース版である。これも現代となっては個性的なチョイスである。と思ったらハイティンクも同じか。クーベリックもだ。この時代の指揮者は旧全集の原典版で育ったんだね
しかし、エーザー版って、トリスタンの引用があったんだ。これまで全然気が付いてなかった。こないだのマルテ版もここを引用しているんだね。

The Cleveland Orchestra
Christoph von Dohnányi

Anton Bruckner

Symphonie Nr.3 d-moll 1877 edition Öser
1993.6.1, Severance Hall, Cleveland

Symphonie Nr.8 c-moll 1890 edition Haas
1994.2.6-7, Severance Hall, Cleveland

DECCA

2007年01月30日

指輪の半分/ドホナーニ

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スタジオ録音による最初の「ニーベルングの指輪」全曲を完成させたDECCAが、最後の(?)スタジオ録音による全曲録音を作成すべく取り組み、道半ばで挫折した「ラインゴールド」と「ワルキューレ」である。
ラインゴールドは1年位前に手に入れ、ワルキューレはようやくこないだ手に入れた。

両方を聴いて思ったのは、「発売順が失敗の元だったのでは」ということだ。
録音はワルキューレが先だが、発売はラインゴールドが先。演奏の、質というのではなく、方向性が微妙に違っていて、それが販売に影響したのではなかろうか。
一言で言えば、ラインゴールドは「端整」、ワルキューレは「劇的」。ラインゴールドは交響曲のようだが、ワルキューレはまさに楽劇の世界である。
おそらく、ワルキューレは、ドホナーニとしても得意な曲であろうし、クリーブランドとしても演奏会形式のコンサートなどを通じて曲が体に一体化した状態で臨んだ録音なのではなかろうか。ドホナーニが振り回せばオケが食らい付く。
ラインゴールドは、曲の性格もあろうが、そういった感じではない。
これを音楽ファンが発売順に聴いたらどう思うだろうか。ラインゴールドを聴いて、ワルキューレを買わなかったのではなかろうか。だって交響曲のようなワルキューレを聴きたい人は少なそうだもの。
ワルキューレを先に聴いたらラインゴールドは買うと思う。歌手陣も、ワルキューレの方が万全だ。スタジオ録音なのに手に汗握るドラマを感じる。

ドホナーニの一連のオペラ録音のうち、評価の高いフィデリオやヴォツェックは再発されたが、オランダ人も含めたワーグナーが再び日の目を見ることはないかもしれない。だっておそらくほとんどの人が聴いたことがないだろうから。そう考えると、全く忘れ去られる前にこの2曲を手に入れられて幸いであった。


Richard Wagner

Das Rheingold

Wotan: Robert Hale
Fricka: Hanna Schwartz
Freia: Nancy Gustafson
Donner: Eike Wilm Schulte
Froh: Thomas Sunnegardh
Loge: Kim Begley
Mime: Peter Schreier
Alberich: Franz-Joseph Kapellman
Fasolt: Jan Hendrick Rootering
Fafner: Walter Fink
Woglinde: Gabriele Fontana
Wellgunde: Ildiko Komlosi
Flohsshilde: Margareta Hintermeier

The Cleveland Orchestra
Christoph von Dohnányi

1993.12, Severance Hall, Cleveland


Die Walküre

Siegmund: Poul Elming
Sieglinde: Alessandra Marc
Hunding: Alfred Muff
Wotan: Robert Hale
Brünhilde: Gabriele Schnaut
Fricka: Anja Silja
Waltraute: Karin Goltz
Helmwige: Ruth Falcon
Ortlinde: Susan Marie Pierson
Gerhilde: Michele Clider
Schwertleite: Pnenlope Walker
Siegrune: Katherine Cienski
Rossweisse: Susan Shafer
Grimgerde: Sandra Walker

The Cleveland Orchestra
Christoph von Dohnányi

1992.12, Severance Hall, Cleveland

DECCA

2007年01月13日

スメタナの管弦楽曲集

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いやはや、スメタナの管弦楽曲だけで1枚のアルバムを作ってしまうとは恐れ入る。経営度外視?もちろんドホナーニの指揮だからこそ買ったCD。

それはともかく、歌劇「リブシェ」の序曲と出会えたことが、このアルバムの最大の収穫である。
リブシェのことを紹介しているサイトもちゃあんとありますね。さすがだ(何が?)。
http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-41.htm
http://www2.snowman.ne.jp/~hyamane/aoki/20legend.htm
実はこの曲、冒頭のファンファーレがプラハの春の開幕コンサートのしょっぱなに演奏されている(毎年かどうかは分からないが)。リブシェのファンファーレ、国歌、我が祖国という流れである。なるほど、チェコ(ボヘミア)にとって大事な作曲家であり、大事な音楽なんだな。
曲はなんとなくリムスキー=コルサコフの「見えない街キーテジと乙女フェブローニャの物語」を髣髴とさせるというか(全然違うけど)、ゆったりとした、本当にお伽噺のような音楽だ。パルジファルにも似ている?

そのほかの曲では、モルダウは沈着冷静を保っていたオケが、終盤でふと感情が高ぶっているような感じで面白い。ボヘミアの熱い思いに感応してしまったか。
「売られた花嫁」のポルカにだけ男声合唱が入っているのだが、妙に生々しい地声っぽい歌い方で、深夜に聴いてて誰がしゃべりだしたのかとかなりびっくりした。


Moldau (1994.1.24 rec)
Libuše, Overture (1994.1.24)
The two widows, Overture and Polka (1994.1.24, 10.16)
The kiss, Overture (1994.10.16)
The bartered bride, Overture and Three Dances (1993.6.6)

Christoph von Dohnányi
The Cleveland Orchestra
The Cleveland Chorus

DECCA

2007年01月12日

ジョシュア・ベルのブラームス

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「レッド・ヴァイオリン」の奏者、ジョシュア・ベルの、ブラームスとシューマンのヴァイオリン・コンチェルト。
伴奏はもちろん、クリストフ・フォン・ドホナーニとクリーブランド管弦楽団。

ブラームスは「可憐」な演奏だ。ソロも伴奏も。一切叫ぶことなく、しなやかに淡々としみじみとブラームスの音楽を楽しむ。
これまで「剛毅」な演奏を聴くことが多かったような気がするが、「可憐」な演奏というのは初めて聴く。「女性的」と評する人もあるかもしれないが、女性でもここまで「柔」に徹底した表現をしないかもしれない。

個人的にはブラームスは「剛毅」な演奏が好きで、ピアノ・コンチェルトで言えば2番より1番が好き、って関係ないか。だから、こういう演奏はあまり好まないと思っていたら、これは気に入った。ブラームスのナイーブさをうまく表現しているように思う。
ソロが可憐に弾けばオケも反応してさらにしなやかに付き従っていく。いいなあ。

ドホナーニはブラームスをツェートマイヤーともテルデックに録音していたはずだが、こちらも聴きたい。

そしてシューマン。ジョシュア・ベルにとっては、このめちゃめちゃマイナーなシューマンのほうが身近な曲なのではなかろうか。隅々まで味わいつくし、なで回すような、親近感を感じさせる演奏だ。
そしてまたオケが音の深み、精神の深みで支える。2楽章はむしろオケを聴くべきかも知れない。3楽章ではソロが饒舌。結構速いテンポだと思うし、ソロは相当忙しそうに弾いているが、全然難しそうに聴こえない。むしろ楽しそう。

DECCAリストラ組のジョシュア・ベルとドホナーニ、ちゃんと今でも実力相応にがんばっている。


Johannes Brahms
Violin Concerto in D major, op.77
1994.5

Robert Schumann
Violin Concerto in D minor
1994.10

violin: Joshua Bell
Christoph von Dohnányi
The Cleveland Orchestra

DECCA

2006年10月18日

ドホナーニの火の鳥

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こないだのペトルーシュカに続いて、オーストラリア・エロクアンスもの。
LPでの構成は、火の鳥で1枚、ペトルーシュカで1枚、役人と2つの肖像で1枚だったようだ。でも、録音日を見ると今のカップリングの組み合わせで録っている。

まず火の鳥。
やれやれ、これまた尋常でない精度の演奏だ。比類なきタイミングの正確さ、表情付けの的確さ。本当にねちねちした練習だったんだろうなあ。こういうぎちぎちした正確さを要求されるのってオケはいやなものだ。とくにウィーン・フィルだし。それで昔ギュンター・ヴァントと決裂したし。
それ以上にこの演奏を価値あるものにしているのは、全体に漂う「品」だろう。ヨーロッパ的「品」。音楽の都人としてのフィルハーモニカー、ベルリン生まれのヨーロッパ的コスモポリタンたるドホナーニ、英国病的栄枯盛衰を象徴するDECCA。野蛮時代のストラヴィンスキーの3曲の中でももっともメルヒェン的な火の鳥。そういった要素の混淆が「品」を醸し出すのだろうか。

バルトークの2つの肖像の1曲目のソロ・ヴァイオリンは、今や指揮者としてのほうが有名なエーリッヒ・ビンダー。当たり前だが達者なソロ。民族性よりも汎欧州性を感じる。
2曲目は、結構野蛮系の演奏。でも精密。

いずれも非常に素晴らしい演奏でありながら、精度が高いがゆえに雑味成分が薄れ、個性が聴こえてこないと思われがちな演奏なのかもしれない。
しかし、細部が聴き取れる聴者には比類なき演奏に聴こえるはずだ。


Christoph von Dohnányi
Wiener Philharmoniker

Igor Stravinsky
The Firebird (1910 version)
1979.9.27-10.9, Sofiensaal, Wien

Béla Bartók
Two Portraits
solo violin: Erich Binder
1979.9.26, Sofiensaal, Wien

Decca

2006年10月14日

ドホナーニのペトルーシュカと役人

dohnanyi_wph_mandarin.jpg

今やオーストラリア・エロクアンスでしか手に入らないドホナーニとウィーン・フィルのストラヴィンスキーとバルトーク。
何せウィーン・フィルが演奏したこれらの曲はCDではほとんど出ていない。
「ペトルーシュカ」はこれとマゼールだけ、「中国の不思議な役人」は全曲盤はこれのみ(DVDではブーレーズがある)。

この頃のウィーン・フィルというのは今よりもはるかにローカル色が濃い。技術的にはいちばん良くなかった頃だったんじゃないだろうか。

それでも、このペトルーシュカは精緻である。在るべきタイミングで在るべき音が鳴る。正確なアンサンブル。しかも決して機械的ではない。上手くないからではなくて、音楽的であるという意味で。
音楽の向かう方向性をオケが見事につかんでいる。それを的確に示唆しているのがドホナーニだ。
録音がまた美しい。今は無きゾフィエンザールの美しい響き。

役人も上手い!リズムが良い。始まってちょっとしてからのヴィオラから始まる3拍子系の部分、とても正確な3拍子で、それだけでしびれる。相当容赦ないリハーサルだったんだろう。
クラリネットのソロ(ソリ)、トロンボーンのグリッサンド、経過句的なリズムの音楽、ひとつひとつの楽節が魅力に満ちている。ぼうっとして聴いててもその音楽に自然に耳が行ってしまう。
最後の部分の邪悪さがまた素晴らしい。

何でこんな演奏がお蔵入りしていたんだろうか。


Christoph von Dohnányi
Wiener Philharmoniker

Igor Stravinsky
Petrushka (Revised 1947 version)
piano: Horst Göbel
1977.12.6-15, Sofiensaal, Wien

Béla Bartók
The Miraculous Mandarin
Chor der Wiener Staatsoper (Chorus master: Helmut Froschauer)
1977.11.22-24, Sofiensaal, Wien

Decca

2006年10月13日

ドホナーニ/WPh/リヒャルト集

dohnanyi_wph_strauss.jpg

ヤフオクで調達。
ヤフオクは「評価」をしなくちゃならないので、とりあえず聴かねばならぬ。HMVで買ったCDよりも先に。

ドンファン。中間部までは、指揮者なんかいなくてもこんだけ音楽作れるんだよ、とウィーン・フィルが言っているかのように、オケ主導。この曲に関しては、ウィーン・フィルのメンツは誰でも指揮者なしで最初から最後まで普通に演奏できるだろう。それくらい曲をよく分かっているという音が出ている。そして、指揮者の音は聴こえない。
ところが、後半に差し掛かると、なんだかオケがどんどん煽られて興奮して、大騒ぎの演奏になっている。それでもウィーン・フィルのメンツは言うだろう。「いや、ちょっと興奮しちゃったんだよ」と。指揮者と関係なしに。
でも、指揮者と関係なしに勝手に盛り上がれるものではない。どんな方法かはよく分からないんだが、ドホナーニが何か「ツボ」のようなものを押さえたのではなかろうか。それで煽られてしまったと。

メタモルフォーゼン。もちろんこの曲もウィーン・フィルにとってはなんということもなく普通にいつでもできる曲だろう。そういう自由さが横溢している演奏だ。それでも、曲が進めば進むほど、目に見えないレールの上を快適に走っているような印象が強くなる。もちろんそのレールを敷いているのはドホナーニだ。奏者すら気が付かないように自然なレールの敷き方。

死と変容。最初から興奮気味。収録順もこの曲順どおり最後だったのだろうか。ちゃんと指揮者との共同作業になっている。印象的なのがティンパニ。ここぞというところできっぱりと叩く、この叩きっぷりは爽快だ。終盤ではどんどん練れた音が出るようになり、サウンドとしての一体感も増してくる。そうでありながら、「べ、べつに指揮者に感動しているんじゃないんだからね!」みたいな不思議なツンデレっぷりが感じられる。

ところでこのCD、反射防止剤だかなんだか、緑の塗料がディスクのふちに塗られている。見た目が非常に禍々しい。とりあえず普通にディスクはプレイヤーにかかるし、比較のしようはないながらも音は普通だ。その分だけ値段は安かったからいいんだが、こういうのってなんなんだろうね。


Christoph von Dohnányi
Wiener Philharmoniker

Richard Strauss
Don Juan, op.20
Metamorphosen
Tod und Verklärung, op.24
DECCA, 1989.12.18-21, Musikvereinsaal, Wien

2006年09月02日

ドホナーニのヴォツェック

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なんという苦み。この不信に満ちた苦い響きは決して狙ったものではなかろうが、曲と完全に一体化している。

ヴォツェック、大尉、鼓手長、医者の歌唱はいずれも精神の歪みと皮肉に満ち、特にハインツ・ツェドニクの憎らしい表現が素晴らしい。
逆にマリーのアニヤ・シリアは夫である指揮者に見守られての歌唱だからか、泰然自若として余裕と落ち着きにホッとしつつも、画竜点睛を欠くと言えなくもない。

この演奏の方向性を決定的に決めたのは、当然ながら指揮者とオーケストラの関係だろう。なぜか第1幕からずっと相互不信に陥っているような不思議な緊張感がある。
オケが指揮者に逆らっているわけではないし、指揮者がめちゃめちゃ無理を言っているのでもないと思う。しかしながら、この水準の演奏に持っていくためには相当な応酬があったのだろう。「何でそこまで言われなくちゃならないんだ」みたいな音がしている。それがまた曲にマッチしているわけだ。
曲が進むにつれてその相互不信は必要に迫られて(曲が難しくなるにつれて?)解消され、最終的には緊張感に満ちた演奏が生まれた。
この曲は私はバレンボイムとベルリン・シュターツオーパーの来日公演を見ている。10年くらい前なので印象しか残っていないが、この演奏よりは温和だったと思う。

ところで、よく聴いてみると聴いたことのあるパッセージがいくつか聴こえる。マーラーの大地の歌の6楽章のハープのパッセージに似たものは引用だろう。同じくマーラーの9番の2楽章はレントラーの曲を作ったら結果的に似てしまったみたいな感じだが、そこまで狙ったのかも。バラの岸のワルツみたいなのは何なんだろう。
さて、それよりも気になったのは、ショスタコーヴィチの交響曲の4番に現れるパッセージに似たもの。鼓手長の場面では1楽章の断片が、マリーが殺される場面では、3楽章の一番最後の弦のハーモニーが聴こえる。
おそらく、ショスタコーヴィチは、4番でヴォツェック的なものを描きたかったのだろう。

このCDにはシェーンベルクの「期待」も入っているが、初めて聴く曲でよく分からんので何も書かない。

さて、ドホナーニが正規録音したオペラ、ルル、ヴォツェック、サロメ、フィデリオ、オランダ人、ラインの黄金は手に入れた。あとはワルキューレだけかな。今回も某オークションで調達。

Alban Berg
Wozzeck

Wozzeck: Eberhard Wächter
Marie: Anja Silja
Tambourmajor: Hermann Winkler
Andres: Horst Laubenthal
Hauptmann: Heinz Zednik
Doktor: Alexander Malta
Margret Gertrude Jahn

Wiener Staatsopernchor
Wiener Philharmoniker
Christoph von Dohnányi

DECCA, 1979.12

2006年08月28日

ドホナーニのショスタコーヴィチ

dohnanyi_shostako10.jpg

ショスタコーヴィチの交響曲第10番については、世間的にはカラヤンのデジタル録音(DG)、ワタシ的にはヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管(CHANDOS)が決定盤であり、それを何らかの形で揺るがすものはないと思っていた。
それが、このドホナーニの演奏は、これまで聴いたショスタコーヴィチ演奏の類型にないすばらしい演奏なのだ。

ソヴィエトの悲劇を感じさせるというには素直すぎる演奏であり、純音楽的というには苦み走っている。
この時期のドホナーニの演奏に特徴的な、短すぎる強烈なアクセントが、ソヴィエト・ローカルでないグローバルな視点と苦味を同居させている。

どこをとってもアンサンブル的な破綻はないし(ホントに1日で録ったのか?)、切り込みも鋭い。聴いていると、タコ10なんてもうこの1枚でいいんじゃないか、なんて気になってくる。

なお、ドホナーニの指揮したショスタコーヴィチは他に1番のシンフォニーがある。これはドホナーニ退任記念の10枚セットの中にあるが、異常にせかせかした演奏で面白い。

ルトスワフスキに関しては何か言えるほど曲を理解できていないが、弦楽合奏の美しさは比類ない。「弾ける」人が何十人も揃って初めてなる弦の音だ。技術のレベル(精神性を抜きにしてという意味)でも、日本のオケはここまで到達できるだろうか。


Christoph von Dohnányi
Cleveland Orchestra

Dmitri Shostakovich
Symphony No.10 in E minor, op.93
1990.2.12

Witold Lutosławski
Musique funébre
1990.8.21

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